「日本における『END:CIV』」高祖岩三郎
エイドリアン・ハーレー/成田圭祐という国際的アフィニティーによって準備されているこの映画の上映運動は、ことさらこの場所日本において、この時3/11以降の状況下において、貴重な意義をもつと思われる。それはこの決定的な事態を予測したというよりも、資本主義文明の世界制覇の構造的提示として、それが起こってしまった不可避性を立証しているからである。ということは、この映画の視点は、3/11を改めて世界的連関において捉える一般的可能性あるいは端緒を示しているということであろう。
デリック・ジェンセン『エンド・ゲイム』(I)(II)に触発されたこの映画は、フランクリン・ロペスが監督/作者ではあるが、ジェンセンを初めとする幾多の実践者たちの声の導入によって、3/11以降の今日、ますますそのアクチュアリティーを感じざるをえない一つの世界変革実践の系譜を敷衍している。アナキズムの中でも、最もラディカルで真摯な実践形態の一つであるエコ・アナキズムあるはグリーン・アナキズムである。それは森林伐採阻止から、先住民の生活圏の防衛、より広範な地球解放(アース・リベレーション)、そして海洋を舞台とするシー・シェパードなどを経てきた、あくまでも直接行動によって、企業と国家権力の暴力的世界変容と対決する諸々の実践の集積である。
この映画の標的は、歴史的には、植民地主義に始まり、世界資本主義の拡張を司ってきた西洋産業文明そのものに向けられている。さらにそれは、構造的連関性として、 テクノロジー/文化/都市的日常生活が、如何に石油とエネルギー生産中心主義によって支えられた暴力的グローバリゼーションに捉え込まれているか示して憚らない。われわれが、この同じ日常生活を推進し続けること自体、世界の破局を準備するものでしかないという判断において、「抵抗か死か」という全面的闘争を呼びかけている。
ここでは最終的な拠点は、地球とその生態系である。かかる文脈で、ことさら重要なのは(独自の共同体と文化形態の意識的固持によって、文明のなし崩しの拡大/発展に抗してきた)先住民の諸闘争との接点であろう。それらは過去の遺物を守るための闘いというよりも、現今問題を先端的に担う闘争と看做されるべきである。その意味で、これらの運動に、いわゆる原始主義(プリミティビズム)が谺しているとすれば、それは単純な自然回帰の主張というよりは、私有化によるのでない大地/地球との関係をどのようにとり結び直せるか、つまり人間のみならず、大地/地球をどのように主体と看做し直せるか、という問いとして解釈されるべきだろう。われわれは今や、かかる転換がーー主義主張としてでなくーーどう実現されるか?という戦術的問いとして問われるべき時節に突入した。
3/11以降の日本では、様々な度合いと質による被曝の影響下で、新しい社会管理/統制が実施されている。これは高度経済成長期以降、次第に強化されてきた「風景の変容」の延長であり、一つの頂点である。ここでは開発こそが、日常化した暴力であり、権力の新しい形態を形成している。原子力を土台にしたこの体制は、おそらく最も危機的であり、同時に最も完成された軍産体制を実現している。ジェンセンやロペスが、「文明」と呼ぶこの悪魔的趨勢は、ここでは「装置(アパラタス)」と呼び換えることも可能だろう。そしてそれを解体する可能性は、すでに、その他のどの地においてよりも、放射性物質の拡散によってこれまでの生活形態が崩壊し、その根底的な変革を迫られている日本列島において、様々な形態において、試されているのではないか。その意味で、この映画を貫く、固有の終末感と怒りに満ちた時代精神(ザイト・ガイスト)は、黙示録的な日常生活と対決している列島住民の間で、 最大限に反響していくだろう。
